独特のオタク流儀論
私はもう長いことオタクをやっています。四半世紀以上それが普通のことなので普段「オタクならでは」の行動を意識することはありません。しかし時折、一般人と会話していると自分はオタクなのだと意識させられる出来事に出会います。
オタクはオタク以外の人々を「一般人」と読んで明確に棲み分けています。「一般人」という呼び方の対になる言葉として例えば「芸能人」とか「お金持ち」等がありますね。その文脈において「一般人」とは、何か特殊な能力や持ち物を「持っている人」に対しての「持っていない人」という意味合いで使う言葉です。
オタクはなぜ自分たちに対してそれ以外の人々を「一般人」と呼ぶのか…自分たちは「持てる者」であり、こちら側にいない人たちは「持たざる者」とわざわざ“見えない壁”で隔てているのはなぜか。
今でこそ市民権を得て広く世間一般に認知された感のある「オタク」ですが、黎明期には蔑む言葉としての意味合いが強かったように思います。現代では実感がないかもしれませんが、オタクだということは隠れてこっそりと楽しむ文化だったんです(それには社会背景や時代などもろもろの理由があるかと思いますが、これだけで連載できてしまうくらい長くなるのでここでは割愛します)。
漫画やアニメ界隈に関して言うと「一般人」の目に触れてほしくないものを、自分たちのコミュニティ内に限って楽しみたいという暗黙の了解があると感じます。そこには明らかに“見えないけれどもある種、国境や関所のような高い壁”がそびえ立っています。
最近ふと、それは“オタクたちのプライド”なのかもしれないと思うのです。自分たちの推しへの愛情の強さ(かけてきた労力、時間、お金など)を以って迫害の歴史(とオタクたちが思っている)を生き抜いてきた。それらを経て、ある程度の市民権を勝ち取った今を謳歌している己は「持てる者」である、と。
そんな風に思えば誇らしげに痛バックを携えている人々がたくましく見えませんか…